高機能の自閉症の世界から見たコロナ騒動

コロナウイルスの感染拡大のペースが上がってきた。人々の不安感も高まってくる中で、ヨーロッパの高機能の自閉症の女性の一件もあり、事態をどう受け止めているのか少し心配になった。身近にもちょっと不安定になっている仲間もいる。

不安定になる理由は、まず第一に変化があげられる。連日のメディアの報道。それからコメンテーターや専門家によって全く違う見解。えーい、どっちなんだい!?みたいなはっきりしない言動に人一倍精神的エネルギーを消耗するのだろう。

次に、目に見えないウイルスという存在。手洗いや消毒の範囲や程度の抽象さ。その目に見えなくて抽象的な行為が、専門家の間で1番大事と言われている。自分のやり方や程度は合ってるのか、どうなんだ。こういう抽象さも不安の一因でしょう。

次に死亡者数と罹患者数のはっきりと目に見えすぎるデータのインパクト。自閉症の人からすれば、目に見えない恐ろしいウイルスに、逆にはっきりと見える罹患者、死者数の数字のギャップ。人並み以上に不安を感じておかしくない。

たしかにこのウイルスは怖い。なぜかと言うと、未知、未体験のものだし、ワクチンも薬もないから。

だけど、ちょっとの安心材料として言えるのは、死亡率がそんなに高くないのでは?というところ。

死亡者数/罹患者数で死亡率を出せると思うんだけど、すべての罹患者を把握できているわけではないから、分母の数はもっと多くなるはずだ。一方で分子の数はある程度正確だと思われるので、つまりのところ死亡率はすこし低めに理解していいのではないかな。

あなどらず、油断せず、手洗いうがいなどを習慣づけ、不要な外出を避けた上で、死亡率はインフルエンザよりちょっと高い程度って専門家が言ってたなぁと。警戒しつつ必要以上に不安を抱えない感じでどうなんでしょうか。

バランスよくご飯を食べて、体を温かくして、お笑い番組でも見て免疫を高めて。嵐が通り過ぎるのを待ちましょう。

黙ってたほうが…

新型コロナがじわじわと広がりつつある。僕も不安がないと言えば嘘になるが、多くの人が感情のままに批判の声を上げていることに、本来のウイルスの脅威以上の不安を感じる。

僕が言いたいことを一言で言えば、国のことを想い、自分や家族のことを想うなら、黙ってるのが最善ですよということ。

感情に任せて批判する→反体制派がそれらの声を利用する→政治的なパワーとなって政府を揺るがす→必死に対策を検討している中枢に不必要なストレスがかかる→決断の精度が悪くなったり、動きが遅くなり、成果が半減する→国民に悪影響が出る

僕ら庶民が不安を感じ、感情の赴くままに言う批判や正論の内容など、政府が思いつかないとでも思ってるんでしょうか。

政府はもっともっと高次元な話、例えば戦略や戦術を検討しているわけですよ。戦略や戦術というのは、全戦全勝じゃなくて、ここは負けたとしてもここで勝つとか、20のマイナスがあっても80のプラスを守るとか、そんな話なのですよ。100ゼロなんかありえないわけで。むしろ20のマイナスを19にできないかと、責任を背負って必死に検討してくれているわけですよ。

その20のマイナスへの不安について、いちいち批判すんなよと。

わかっとる!っちゅーねん

んなこと政府はわかっとるっちゅーねん!

はいここ大事だから2回言うぞー笑

僕の推測が正しければ日本政府は相当優秀ですよ。

ウイルスは確かに怖いけど、もっと怖いのはパニックなんですよ。医療現場がキャパ崩壊したら、犠牲者が広がるんですよ。だから、ぼくら庶民は政府の方針に黙って従っていたほうが、よっぽど世のため人のため自分のためなんです。

某批判系メディアなんてこの状況下でもひどいですよ。無責任さが目に余ります。お願いだから、国民のために黙っててくださいと言いたいですね。

今回はブログの趣旨とは違いますが、皆さんの健康と、安全のための号外です笑

粛々といろんなことを我慢して、嵐が通り過ぎるのを待ちましょうよ。

大学等への進学の時

今、大学生活になじめない学生が増えてきているらしい。

なぜかというと、友達を作ることがうまくいかなかったり、自分で科目を選択したり情報収集をしなければならないなど、高校までの学校文化とがらりと変わるから。

まず高校までだと、1クラスの同性のクラスメートは多くて20人。毎日決まった学級で過ごすので、自分の居場所がはっきりしてるし、繰り返しクラスメートと接する機会がある。ところが大学では、共通科目はいきなり大きな講堂で数百人単位。座る場所も自由。つまり不特定多数の中で、自分がどうするのかを考えなければならないわけだ。入学後少し時間が経つと仲のいいもの同士一緒に授業を受けるようになっていくので、なかなかその輪に入っていくことなどできない。うまく最初の友達づくりができなかった人が、ひとりぼっちで学校生活を送ることとなり、トイレの個室で昼食をとる学生もいるという。

対応策だが、まずこうした情報を知っておくことが大事。

なにせ僕も大学入学の直後はハテナだらけだった。

え、なんでみんなもうそんな仲いいの??え、なんで授業の情報知ってんの??

田舎出身者は特に心しておいた方がいい。都会出の学生はスレているというか、人間関係の荒波に揉まれている。大学も多いので、大学情報に触れる機会も多いのだろう。大規模の学校の人間関係の渡り方を既に理解しているのだ。性格が悪いとは言わないが、間違いなくスレている笑
田舎出身者はお人よしというか、トロいというか、そんな感じだ。もじもじして話せないでいると置いていかれてしまう。僕もそうだった。

そこでだ。オススメするのは、背伸びをしないで、本当に好きで続けられそうなサークルに入ること。入学したらすぐに。そうすると似たようなタイプの同級生と友達になれる。授業と違って毎日繰り返し会うので友達にもなりやすい。友達になったら一緒に授業に行けばいい。

今思い返すと、大学ばかりじゃなかったな。高校も程度は低いが同じだった。都市部出身の学生はスレてた。つるみ方というか、とんがり方というか、明らかに人数少ない田舎中学卒の学生よりマウントの取り方がうまかった。

都市部の学生は人混みに揉まれている。スレている。

大橋説笑

心配いらない。背伸びしないサークルに入ったら、背伸びしなくていい友達ができる。そして、自分もまたすぐにスレていく。

家から出られなくなったら

家から出られなくなる理由はひとそれぞれさまざまな理由があります。

心身症などにより、体調が優れない。精神的にきつい。会社で失敗体験が続き、社会が怖くなってしまった。

いつでも、誰にでも起こりうること。だからこそ、社会のセーフティネットは大事だと思うのです。雇用保険や年金、生活保護などの制度を活用しながら、少しずつ社会復帰を目指していくことになると思います。

だけど、やっぱりいきなり社会に復帰するなんて大きな目標は持たなくていいんじゃないかなと思います。

まずは朝起きること。できれば7時に起きて、散歩をすること。その後2度寝してもいいので、少しずつ朝の活動を広げて行ってください。8時まで。9時まで。10時まで。少しずつでいいし、働かなくたっていい。本当に散歩でいいと思います。騙されたと思って1年続けてみてください。

少し勇気が湧いてきたら、近くの相談所に行って今の気持ちや不安を相談してみてください。そういうところから始めることを勧めます。

それから、他者を責めないこと(他者が変わればいいのに!と思わないこと)です。他者を責める思考の堂々巡りは、天気を変えようとしていることに近い。

確かに、明らかに他者が悪いこともあります。自分が正しく、周囲が間違っていることもあります。しかし、社会は必ず正しい方向に動いていくとは限りません。天気のようなものと諦めることが必要な時もあるのです。
毎日ドカ雪で屋根が壊れることもある。連続して台風に見舞われることもある。とても理不尽に思うかもしれないですが、なかなか自分の思うように変えられないのが社会だったり、他人だったりします。

ですが、屋根を補強したり、台風に備えて窓を塞いだりすることならできます。つまり、自分を変えようとすることなら、誰にでもできます。

変えようと日々歩んでいくことが大事です。結果的に変われなかったとしても、それはそれでいいのではないでしょうか。天気を変えようとするストレスから解放されれば、きっと今より楽になるはずです。

そういう歩みが生きるということそのものかもしれないですね。

援助要請

あなたは本当に困った時に、誰かに援助を求めることができますか?

胸を張ってイエスと言える人はどのくらいいるのかな。なかなか人間関係が希薄になった社会です。そんなに多くはないでしょう。

自己責任の空気が社会に強くなればなるほど、他人に援助を求めることは、自尊心と相反する感情を想起させると思います。

昔は「お互い様」と言えていたことが、現代は言えない。

もはや家族ですらでしょう?

自分の子どもに介護をしてもらうのは気が引ける。そんな時代です。昔なら、自分も親を介護するから、自分も子どもにしてもらって当たり前。お互い様だった。

「すいません、塩きらしちゃって」なんて隣の家に借りに行こうものなら警察呼ばれるんじゃないでしょうか笑

ムラ社会の権力構造の理不尽さを嫌う人は現代では多数派だと思いますが、実は村社会の権力のしがらみでは弱い立場の人が守られることも事実なんですよね。人は、不自由のなかで守られるよりも、自己責任で自由に生きる道を選んだ。それが現代社会です。もちろん僕も自由を謳歌しているし、士農工商時代に戻りたくなんかない。

でもなー。100%自由であるということは、とてもピリピリした社会だということも事実なんだよな。

ほぼほぼ自由化した現代社会。援助要請をすることを躊躇してしまいますよね。

もし、あなたが周囲に攻撃的になっていたりするときは、それはSOSの形が変化しているのかもしれません。

援助の形は様々です。もちろん全て助けてもらえるとは限りません。しかし、少なくとも現状を改善する糸口を探したり、混乱して答えを見つけられない思考を整理したり、そういう援助ならば今の社会には十分に整備されているようにも思います。

自由になりすぎた現代。そのくらいの相談はお互い様と思っていいのではないでしょうか。

すこしの希望

明けましておめでとうございます。

年明けにふさわしく、すこし希望になるような話をしたいと思います。発達障害や発達の個性の強い人たちにとって。

さて、発達障害とはなんなのかということを捉えようとした時に、僕は本質的には脳のタイプの違いだと思っています。違いの個性が強いということ。

この時点では障害ではありません。

僕は今の日本がちょっと行き過ぎているなーと思うのは、均質化することや画一化することが人に求められすぎていること。当然個性の強い脳のタイプの人たちは馴染めない可能性が高まりますよね。

ただ、ここで気をつけなくてはいけないのは、「社会がわるい」と、社会を悪者にして片付けることはできないということです。なぜかというと、社会というものは誰か権力のある人によってコントロールしきれるものではないからです。

さまざまなミクロの要因が影響し合って社会のうねりができていくので、マクロ的に何か1つのものを悪者にすることなどできないということです。

僕は、実はこれからの時代は、脳のタイプの個性が強い人たちの活躍の場が広がっていくのではないかと推測しています。もちろんすぐとは言えませんが、10年もあればそのような兆候が出だすのではないかと思っています。

それはAIなどのテクノロジー革命によって、社会構造が変わっていくからです。

これまでの社会で重宝されてきた人材というのは、言語によるコミュニケーション能力に優れ、社会性があるタイプの人。組織の均質性に染まることができ、専門知識を持っている人。

まあ、全ての場合がそうだということではありませんが、現代の社会人にはそういう力が要求されることが多かったですよね。

しかし、AIが普及していくとどうなるでしょうか。今ある仕事の6割が無くなるとも言われています。詳細は調べてください。

僕が何を言いたいかというと、AIをプログラミングしたり管理したりする人。つまり視覚的に情報を処理することに長けている人。あるいは、AIにはできない能力を有している人が、仕事という点では重宝されるということです。

少し時代を遡ってみましょう。狩りが主だった時代には判断力に優れて行動の早いADHタイプ。農耕が主だった時代には安定的に決まった流れを繰り返し、自然の変化を敏感につかむことのできるASタイプ。サービス業が主の現代は言語によるコミュニケーションが得意なノーマルタイプが力を発揮しやすかったと言えます。

おそらくこれからの時代の変化に合わせて、教育のあり方も変わって行くでしょう。AIを操作するような能力や、AIには置き変わらない能力という意味で、均質化、画一化とは逆の方向に向かって行くのではないかと思うのです。求められる能力が。

だから、自分の個性の強さを嘆かないで。時代によっては武器なのです。時代によって求められる力に違いがあるわけだから。

大事なのは、全ての個性が包摂されるバランスの良い社会を作ることなのですよ。そう思う人が増えれば、それがまたマクロの社会に良い影響を与えていくでしょう。

尊厳まで忘れたらまいねよ

日本苦境だなぁ。なぜ苦境に陥っているのかという話をしだすと、明治維新まで遡って話さなきゃいけなくなると思うのでここでは控えるけども。

結論から言うと、これからの日本人は下り坂をどう楽しむか。経済一辺倒だった価値観を20年30年かけてもみくちゃになりながら変えていくことを避けられないだろう。その長い下り坂の今はまだ序盤かもしれなくて、真っ先に影響を受けているのが、発達の個性が強い人たちなのかもしれないし、かと言ってその人達だけが影響を受けているわけでもなくて、多かれ少なかれ全ての人が影響を受けていると僕は思う。

そんな中にありながらも、僕は最低限の尊厳まで捨てることを日本人はしないのではないかと淡い期待を持っていたが、いよいよそうではないようだ。

業界で言えば、就労支援の界隈を皮切りにモラルハザードが激しく、場合によっては著しく障害をお持ちの方の尊厳を傷つけけている事例も全国的にはスタンダードになりつつある。誤解を恐れずに言うと、実際には仕事をしなくても通うだけで最低賃金を払うという事例などのことだ。差額ビジネスとでも言おうか。これは障害のある人の尊厳をないがしろにしているということに気づかなくてはいけないよなぁ。

先日県外の某勉強会で某大企業が、障害のある方の法定雇用率をクリアするための外部委託ビジネスを行い、合法である以上資本主義社会では当たり前じゃないかと言わんばかりに力説していたが、尊厳を傷つけていることに気づいていない。綺麗事に聞こえるかもしれないが、僕は日本文化というのはもっと誇り高いものと思っていた。一般業界ではビジネスリーダーと言われるほどの能力がありそうな人の、そんな様子にがっかりしてしまった。

業界外でも異様さが目につくことが増えてきた。HDDの横流し事件。日本社会の中核にあるはずの信頼が崩壊しはじめたような事件。

いよいよ恥もへったくれもない、そんなモラルの崩壊のしかたを目にすることが増えてきている。文字通り業界問わずだ。人心も荒れている。

いや、人心「が」荒れているんだな。生産性の荒波にのまれ、人心が荒れているんだ。

なんとかしなきゃなと思う。発達の個性が強い人たちに影響が出やすいから。

僕自身はもちろん主体的にこの問題の改善に関与していくんだけど、多くの人たちにはそこまで求めないまでも、せめて負の空気に飲まれないで欲しいなと思う。

もみくちゃになりながら価値観を変えていくしかないと冒頭に言ったんだけど、他者への攻撃性や自分を棚に上げての他責がうずまくような「もみくちゃ」は、人と人の間にひずみを生み、結果的にいろんな犠牲者が発生する社会になっちゃうよと、警鐘を鳴らしたい。

もちろんそのしわ寄せは、守るべき子ども達の生活にまで及ぶ。いやもうすでに及んでいるよね。

じゃあどうすればいいか。

自分だけじゃなく社会のみんなが苦しんでいると想像すること。
摩擦を減らすためのちょっとくらいの我慢を主体的にすること。
笑いの時間をつくること。
余裕がある人は、社会をよくしていくことに主体的に関与すること。

これらのことは面倒で苦労が伴う。他者を批判し攻撃し、足を引っ張り、社会が悪いと責任を放棄した方がよっぽど楽だ。僕が言う「もみくちゃ」とは、楽な方に流されず苦労を担うという意味のもみくちゃで、それが10年スパンで続いて新しい時代の価値観が根付いていくだろうというものだ。

いずれにしても下り坂しかないのであれば、これからの2.30年の日本の歩むべき道はそういう道のほうが前向きではないか。楽じゃないけど楽しめる。

夏目漱石は『草枕』で〈とかくに人の世は住みにくい〉と嘆き、続けて〈どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る〉と書いたとのこと。

そういうことなんだ。苦しいのは自分だけと思わないこと。

では次回は発達の個性が強い人たちに向けて、詩や画を生んでもらうための、希望のある話をしよう。

おだてることと勇気づけることの違い④

長くなったが、ようやくタイトルの話。3人目の大学の男子学生さん。在学中にひきこもりがちになってしまい、昼夜逆転。現在は休学をしているがこのままではまずいと思って座禅に来たという。

その彼と僕はおなじ共通点があって、いびきがうるさい。

実はいびきがうるさい人は合宿所だと他の十数人に迷惑になるということで、本堂の左右に1部屋ずつある別室に隔離されるのだ。住職がいびきがうるさい人は挙手しなさいと怖い顔で自己申告を待っている。僕はビビリなので、1人で本堂の隣に寝るなんてまっぴらごめんだと思って下を向いてやり過ごそうと思ってたんだけど、一緒に行った先輩が僕のいびきの隣で寝るのが嫌だったようで、僕を住職に綺麗に売り飛ばした。かくして僕はお寺の本堂の隣の部屋で1人で寝ることになったのだが、反対側の隣の部屋に明かりが灯っていたのだ。

まんが日本昔話だと、このタイミングでお化けが出る。

そう確信した僕は、深夜に不意打ちで出られるよりならば、「そこにいるのはわかっているんだぞ!」っと、こちらから会いに行った方がまだ対処の仕様があるだろうと思い、おそるおそるふすまを開けてみた。そこにいたのが彼だった。

なんだイビキ友達じゃんか!おれてっきり顔がない坊主とかいるのかと思ったよ!

って。寝るのが怖い僕は、彼がなんで修行にきてるのかとか、2人でいろんな話をしたのだった。彼はなかなか優秀な大学の学生だった。一生懸命勉強して入学できたのはいいのだが、人と接することに自信がなく、学校でも孤立。次第に引きこもりがちになって昼夜逆転。休学し2年が過ぎようとしていた。このままじゃまずいと思って修行に来たという。

次の日の朝、座禅堂に彼の姿がなかった。その次の日もなかった。僕はふとお化けだったんじゃないかと心配になり、その夜また彼の部屋を訪れた。そしてまたいろんな話をした。〜になりたいという夢を抱いて大学に来た。卒業したらその仕事に就きたいという話も教えてくれた。ところが朝起きられないというのだ。そして一日中その部屋で過ごしてしまうのだと。お寺でも結局自分の部屋にこもってしまっていたのだ。

僕は彼と話をしていて、仕事柄自然と彼の課題を探ってしまった。きっとなにかの縁だから(イビキでしかない)、また、僕の宿泊が最終日だったこともあって、何かすこしでも彼に役に立つアドバイスができないかと思っていた。

彼は将来自分はこうあるべきだという姿、大学を卒業して〜になるということを少し思い込みすぎているように感じた。そこだけは明確に(そうあらねばならないくらいに)話すのだが、朝起きることができないのだ。僕は正直心の中で難しいだろうと思った。学力的なことではなく、目標地点と現在地点が乖離しすぎていて、本人がそのことに全く気付いていなかったからだ。むしろ、〜になるというのは本当に彼の意思だったのだろうか。親にそう育てられてきただけなのではないだろうか。彼は〜になるべきだ、ならねばならない、なのにまた今日も一日中寝てしまった、なんて自分はダメなんだ。

そんな感じで日々自己嫌悪や焦りと闘っているのではないかと思った。

僕は彼に、目の前の小さなこと1つだけを目標にしたらいいよとアドバイスした。今の君は朝起きるだけでいいんだよと。もし朝起きれたら、次は座禅に来てごらんと。それだけでいいんだよと話して、荷造りをして寝た。

次の日の朝、座禅堂には彼の姿があった。嬉しかった。そう、それだけでいいんだよと、座禅をしながら思っていた。

しばらくすると、スースーと寝息が聞こえる。彼だった。

「誰だ寝ている奴は。」住職がドスをきかす。

ビクッとなって彼は目を覚ました。住職は勘違いをして隣の人の肩をバシバシっと叩いた。

彼の隣の人には悪いけど、バレなくてよかったーと思った。

またしばらくすると、スースーと寝息が聞こえる。

「誰だ寝ている奴は!」

住職は勘違いをして、また隣の人を叩いた。さすがに隣の人も僕じゃないんですけどみたいなリアクションをしている。

僕はもう、せっかく彼が久しぶりに座禅に来れたんだから成功体験で終わってほしくて、心の中で

寝るなー!
住職も気付くなー!
彼は今日小さくて大きな一歩を踏み出すんだー!
成功させてやりたいんだ!気づかないでくれ〜!

ってハラハラしていた。

そしてしばらくは彼も耐え忍んだのだが、無情にも限界が訪れた。それも、耐え忍んだ分圧縮されたエネルギーが爆発的に。グビグビグバッゴボッ!っていう魑魅魍魎がたてるような鼻音があたりに響いた。

住職は獲物をみつけたフクロウのように、静かに彼の前に向かい、例の棒を振り下ろした。僕には住職が3秒ほど空中に浮いているように見えた。

座禅が終わった後、僕は彼に声をかけた。起きれたね〜。と。

褒めることもなく、寝たことを責めるでもなく。

先に現実(青森)に帰るわ。とだけ伝えて、帰宅の途についた。

時に現実は人にとってあまりにも大きな断崖絶壁の山のようで、前に進むことができなくなる時がある。僕だってあの時一歩進めなかったら引きこもってしまっただろうなと思うタイミングが何度かあった。

目の前の一歩を踏み出すことができれば、これまで断崖絶壁のように見えていた山に、意外と沢山の登山ルートがあることに気付いたりする。

彼が朝起きたのは当たり前のことなのだ。僕は褒めることはせず、今日起きれたね〜的な雰囲気だけが伝わるように伝え帰ってきた。褒めることは、それがまた出来なくなった時に、僕は褒められるに値しない人間だと、彼を追い詰めかねないからだ。

今彼がどうしているかはわからない。彼がまた立ち止まったときに、ゼロからイチに変わる勇気を側にいる誰かが支えてくれたら歩き続けられるだろうなと思っている。

おだてることと勇気づけることの違い③

2人目の印象に残っている女子の大学生。
明るくはきはきとしている。こんなこと言うのもおかしな話だが、全くお寺に座禅をしにくるタイプではない笑

ちなみに、お寺の朝は早くて5時頃だったかな?から太極拳をした後に、館内の清掃に入る。その清掃がなかなかの緻密さで。なんだろーな。便器の水が出てくるところの裏側、いわゆる汚物の汚れが飛び散ってこびりついているところを綿棒で隅々まで綺麗にするのですよ。素手で。廊下の水拭きなんて手がかじかんじゃってね。木枯らしが吹く中絵に描いたように竹ぼうきで葉っぱを集めて笑

そのあとは朝ごはん。音を出すと叱られるのですよ。量も少ないからめちゃくちゃ味わって食べる。漬物とご飯と小さなめざし1匹みたいな。うまいんだこれが。

その後は野良仕事。山から畑に水路ひっぱったりね。石ころを拾って開墾したり。

あのね。あの生活してたら心身ともに健康になりますよマジで。早寝早起きで人間の体内時計に従順だし。野菜中心で粗食だし。細部とか感覚を大事にするので、今風に言うとマインドフルネスの効果が生活の随所にあるんじゃないかなぁ。やっぱり何千年の歴史が積み重なった修行でしょうからね。理にかなってるんでしょうね。そうじゃないものは消えていくでしょうからね。

それから。自分の人生に幸福感を感じられない人はぜひ行ってみて欲しいですね。幸福感を感じられない理由に気付けると思います。夜はときどき和尚さんの説法を聞く時間もあって、すごくためになるし。本当におすすめなんです。

とは言えですよ。その女子大学生が進んで野良仕事をしているのを見ると、どうにも違和感があるわけです。友達は今頃渋谷でパーリーピーポーでしょと。

聞くと、大学を一度卒業したんだけども、やりたいことが見つからず2つ目の大学の3年生だそうで。春から就活なんだけど、専門学校に行こうか悩んでいるんだと言うんですね。自分探しの旅でこの修行に来たと。

たいていの人はピンと来ると思うんですが、モラトリアム状態から抜けたいということなんですね。社会に出たくないということをやりたいことが見つからないと表現していたんだけど、自分でも気づいてるんでしょうね。厳しい環境に身を置いて練習したかったのでしょうか。

おそらく昔はお寺にそういう自立支援の役割が備わっていたんでしょうね。親だと甘えを断ち切れないケースとかね。お寺が父性性の役割を果たしていたのでしょう。

おだてることと勇気づけることの違い②

1人目の少年には、住職の関わりが絶妙だったように見えた。どういう仕組みで修行をしているのかはわからないが、どうなんだろう。。。あそこで修行をしているうちは、野良仕事やお寺の仕事をしながら、衣食住は保証されるのではなかろうか。絶対的な受容ではないが、前提として一定の条件さえ守れる者であれば修行僧として受け容れるという母性性が見てとれた。一方で、住職は基本的に明治大正昭和初期のオヤジのような厳しさのある方だった。米の炊き加減、水加減が間違っているだけで少年を厳しくしつけていた。
ドラえもんで言えば、空き地で草野球中にボールが民家に飛んでいって、ガシャーン、コラーっつって出てくる雷オヤジそのものだ笑

読み手の方に誤解がないよう説明を加えると、厳しければいいというものでもないし、なんでも受容するなんて馬鹿げた話でもなく、絶妙なバランス感覚なのだ。それも相手によって程度をコントロールしていると僕は思う。

その少年はなぜ家を出てきたのだろうか。話をすることはなかったが、いろいろなことを勝手に想像した。彼は厳しく律せられることを求めていたのではないか。そして、何事もうまくできない自分にも、諦めることなく愛情を注いでくれる場所を求めていたのではないか。それを乗り越えて、再び社会に挑戦したい。そんな想いが彼の表情から見て取れた。