【今回のコラムについて】NPO法人あーるどより今回のコラムの中の登場人物とのやりとりの中には、現在の発達障害者支援にそぐわない部分もあるかもしれませんが、決して当時の関係者の方々を責めるためのものではございません。発達障害という障害名は、約50年前から言葉として存在していたようですが、社会全体に知られるようになったのは、発達障害者支援法が施行された約10年前からのことです。当時はまだインターネットも普及していなければ発達障害の概念や困難さを補う支援についても広く知られてはおらず、学校では問題がないのに家だけに顕著に現れる廉さんの行動は、一般的な解釈では家庭に何らかの問題があるとしか推測することが難しかったのだと思います。今仮説を立てるとするならば、この時期の廉さんは今までの生活から小学校という新しい環境に移り、自閉症の特徴である先の見通しをイメージすることの困難さにより日々新しい物事ばかりの毎日に不安を示し、様々な事象に対しどう振る舞えばいいのかもわからず混乱の中にいたことと思います。また、言葉の理解や表出の困難さから、その混乱をうまく伝えられず、言葉に言い表せない不安をコップの水があふれるかのように家の中で示していたのかもしれません。もし当時から、障害特性や有効な支援方法について研究が十分になされ、一般的になっていれば、当然関係機関も保護者さんもご本人の安心のためにできる限りの対応をされていたことでしょう。現在は、発達障害への理解が進み、児童や保護者を支援する機関も少しずつ増えてきました。学校でも特別支援教育の充実が進んでいます。当時を乗り越えてきた全ての方々の思いを背負い、強度行動障害という状態をできる限り予防できる社会にしていこうという目的で連載しているコラムです。では、本編をどうぞご覧ください乳児編① こんな聡明な顔の子いる?昭和61年12月5日、待ちに待った二人目の子どもとして我が家にやって来た「廉」。長男とは6才違い、看護婦をしていた職場には年の近い女性が多く、順次結婚して第一子を生むので、順番を待っているうちに長男とかなり年が離れてしまった。長男がお腹にいた時には仕事をしながら夜間の看護学校に行っていたので、人生最高に忙しい日々でかなり妊娠中も無理をしていたのに比べ、二人目は穏やかに、そして楽しみに準備が出来た。でも今思うと、生まれてからの激動の日々を知っていたのできっと神様が休養をくれたのだと今なら思う。主人の両親、父、母、お兄ちゃん、皆に愛され我が家の一員となったのです。長男の名は夫が独断と偏見でつけたので今回は私の権利、妊娠8カ月頃テレビを見ていたら、三宅廉という立派な日本の周産期医療の父みたいな方のドキュメントをやっていてとても感激、「廉」を辞書で調べたら「欲が少なく、心が正しい」とある、クリスチャンの我が家のスタンスにもぴったり、これに決定です。ただ木造生まれの主人の父は、明治生まれの津軽人「ん」がどうにも発音できず不評だった。気になることと言えば、生まれてすぐに泣けなかったこと、オギャーって聞こえないなあと思っていたらやっと泣いた、そのくらいであとは丸々とした元気な子です。私は仕事を開始したので主人の両親が育ててくれたようなものです。音に敏感でなかなか寝つきが悪く、じいちゃんがすぐそばに乳母車を置き常に揺らしていました。長男に比べればそれは聡明できれいな顔をしていて、絶対頭もいいはずと何の根拠もない妄想をめぐらしてました。顔は賢そうだけど、お座りもハイハイも長男より遅く1才でまだ歩けず、1才の誕生日の写真で、長男は指を一本立てて記念写真を撮っていたのに、廉は目線を合わせることもなかなか難しかった。でもにこにこして、あまり泣かず、人見知りをせずだれにでも抱かれご近所でも可愛がられた。ばあちゃんがよくいうエピソードだが、長男の参観日に廉をおぶっていったら、隣のおばさんの髪を握って離さず、おばさんはあまりの痛さに怒っても、ニコニコしながら絶対手を離さず髪の毛が抜け、おばさんブチ切れるという事件があったらしい。すでに片鱗が見え始めていたのに、この屈託のない笑顔に周りが騙されていた時期です。アー怖いアー怖い・・・次回はいよいよ廉ワールド全開の幼児期へ幼児編① (2、3才診断前)「集中時間3秒!時代」1才の誕生日に、そんなに優秀でもない長男でさえ指を一本立てて記念写真に納まっていたのに、目線も合わせられない廉に少々違和感を感じ始めていた母でしたが・・・一才半検診、保健師さんが絵本を開き、「車はどれかな?」無視、「ワンワンはどれかな?」知らん顔、母の膝の上に座っていることもすでに限界、言葉が遅れているということで3カ月ごとに様子を聞く電話もきていたがそれも3回位で、担当が変わったのかもう来ない。二階の窓からは2車線道路や、TSUTAYAが見える、夜になると好んで窓から外を眺めている、後ろから「廉くん」と声を掛けても振り向きもしない、でも玄関に主人が鍵をさして回した小さな音を聞きつけ、ダッシュで玄関に父を迎えに行く。ほかの部屋で遊んでいても、お気に入りのCMがはいると飛んできてニヤニヤしながらテレビを見ている。ある日、絵本を12畳のリビンクの端から端まできれいに並べてニンマリしていた。車のおもちゃも同じ、とにかく並べる並べる・・・二人目の男の子で少し余裕を持っていたわたしも、よく分かんないけどなんか変、そう確信したころでした。2才になっても哺乳瓶を離さない、右見て左見たらもういない、あまりに落ち着きがなく、一体この子は何秒同じことしているのだろうかと計ってみたら、きっちり3秒!短すぎる・・・・外を歩くときには手首以外握ったことなどない、常にどこかに行こう行こうとするちからと戦いながら歩く、まるで元気のいいワンちゃんに引っ張られている飼い主のよう。並んでいる売り物の自転車を蹴飛ばして、将棋倒しになった時に私はもう二度とこの子を連れて一人で散歩などに行かないと決めました。 このころとっても困っていたのは爪での引っかきです。幼児の爪というのは薄くて、きれいに入ると結構肉がえぐれるのです。何の気なしにいきなり私の手の甲をひっかく、猫に引っ掛かれたみたいにきれいに傷になり血がでる。かなり痛いので私も「キャッ」となる、それが面白いのか止まらない。25年たったいまでもその傷跡はたくさんケロイドになって残っていますが、懐かしい思い出です。ただ食事中テーブルを囲んでいる家族の周りを走り回りながら、首筋をひっかくのには皆苦労しました。あっと思ったらもう血がタラー、ハンドタオルを首に巻いても、隙間があるからそこをやられるので、ついに食事中は父、母、お兄ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん家族みんな首にバスタオルを巻いて食事、宅配の方がきてそのまま玄関を開けたらぎょっとされたことがありました。「だめだよ」「痛いからやめて」何を言っても収まらない、でも引っかかれたら血も出るし痛い、痛い思いをするとこちらも腹が立つ・・・平和に食事するためにこれしか思いつきませんでした。なんでこんなことするんだろう?そんなことを考えても何の情報もないし分かりません、でもまた食事の時間はやってくる、でっ?どうする?今の私たちに何が出来る?周りの目など気にする暇もない毎日でした。そんな廉がいないように静かになることが時々あります。泣いている時です。誰も何もしてないのに、大好きなタオルケットを抱きしめて、シクシク、シクシクと泣き続けるのです。3才くらいの子であれば、せいぜい1時間も泣けば寝てしまったりするものですが、最高4時間泣きつづけたこともあります。この世の不幸を一人で背負っているかのように、悲哀に満ちた表情で・・・。まっ爪で引っかかれるよりはいいわけですが、不思議がいっぱいな毎日です。2才を過ぎて片言も話さないのですから、さすがに小児科を受診のおり、先生に「自閉症というものではないでしょうか?」と聞いた私に、ドクターは「お母さんにしがみついて泣いているから、大丈夫ですよ」即答ですか?と思いましが、医者があまりあてにならないことを知ったので、今度は市の電話相談へ、「ん~、2才半じゃ何もできないですね。3才半検診を受けてからまたご相談くださいね。」そうか、3才半検診を過ぎないと何も動き出さない仕組みなんだと理解し、3才半検診を待ちました。案の定、初めての建物、騒々しい雰囲気、白衣を着たおじさんも沢山、あちこちで子どもはギャーギャー泣いている、そんな恐ろしい部屋に入れるはずなどなく、何一つ計測もできず、検査もできず、何もできないことを証明に行った3才半検診。そこから児相、そして判定、やっと「知的障害を伴う自閉症」と廉を一度ちら見しただけの先生が診断、廉の自閉症人生がやっとスタートしました。4才になってからは、家族の唯一の休息時間「泣き」もなくなってしまい、多動により磨きもかかり、どんどんパワフルで、不思議さ全開の幼児期後半へと突入です。次回もお楽しみに。幼児編② (4才)「だんだん自閉症らしくなってきた?」「幼児の通級スタート」何の検査も受けられないということを証明しに行っただけの3才半検診をすぎ、知的障害を伴う自閉症という診断をもらい、愛護手帳を頂き、まずは情緒障害児の通級学級を紹介されました。予約をして学校の片隅の学級に行くと、遊具室があり如何にも廉の好きそうなおもちゃがたくさん、ボールプールや自転車もあり、一人の先生が廉と遊んでくれ、その間私はもう一人の先生といろいろお話をする。個別面談という形で週一回一時間親子で通級することが出来そうです。ただ私は血液センターに看護婦として勤めていて、引っ越したばかりで家のローンも・・・・ここでやめるのは厳しい、でも週一の訓練に、もはや主人の母が連れて行くことは不可能なくらいの多動振り、私が仕事を辞めて訓練に行くとしても、免許のない私がバスで?無理無理…学級にたどり着けないかもしれない。廉が4才の春を迎えるまでには免許を取って、職場を退職しました。なにかしらの訓練をすれば、こんな多動で予測不能な行動ばかりするこの子もなんとかなっていくのだろうか?でも今できることはそれだけだし、とにかく週に一時間でも廉と離れていられる時間をもらえるわけで、その間廉との生活のアドバイスを専門家の先生からもらえるのだ、やっと廉との生活に光が差し込んできたような気がしました。個別の通級ですが、前の時間の親子、次の時間の親子とすれ違ううちに、家だけじゃないんだなということも分かり、自閉症の親の会というものがあることも紹介されて入会しました。その後親の会のお母さんたちとの交流が私を大きく支えてくれることになりました。「意味不明な言葉」野菜も食べず、かなりの偏食なのにどんどん体格もよくなっていく、あいかわらず4才になっても意味のある単語などは全く発しない、でも通級するようになり、なにやら意味不明な言葉をいうようになった「グンタババ」「グンタババ」?言い出すと呪文のように言い続けている。まあ、何にも言わないよりは、これが意味のある言葉に繋がっていくのではと期待していた。でも3カ月くらいで不思議な言葉はまた不思議な言葉へと変化して、ある時から「アックンマー」「アックンマー」聞きようによっては「悪魔」って言っているようにも聞こえる、我が家は毎週日曜日には教会へいく真面目なクリスチャンなのに、ケンカ売るような「アックンマー」の連発、それも大きな声で、口などふさごうものならむきになって叫ぶ、じっと耐えるしかありません。本人のブームがさるのを待つしかない。「好きな物を楽しむことの意味って?」このころの写真を見直すと、ウルトラマンの人形を手に握りしめている写真が多くなる、今でも戦隊ヒーローが大好き、というか頭の中の95%は歴代の戦隊ヒーローが占め続けているように見える。写真を撮るときのポーズ、余暇に書く文字、色のチョイス、今まで見てきた何百冊という戦隊本を頭の中の本棚から取り出しページをめくり、イメージの中で遊ぶ。好きすぎるから刺激が強すぎて、見えるところにあるとイライラしてきて苦しくなってしまうから、壊す、破くその繰り返し、今では結局そばに本の1冊も置くことのできない生活となってしまった。好きなものがあって余暇を楽しめる、そんな誰もができる普通のことが、こんなに困難で混乱のもとになってしまうなんて、ウルトラマンに興味を持ち始めた4才のころは予想もしなかった。この特徴はその後家族を悩ませる大きな壁になっていくのです。ウルトラマンもかなりのシリーズがあり、箱には番号が付いていて、いかにも自閉症が食いつきそうなパッケージです。そんなに高価なものでもないので、おもちゃ屋さんに行くたびに買うのでどんどん増えていきます。まあそこまでは普通、ある頃からふとみるとウルトラマンたちの下半身だけを握っている、上半身はどこ?ごみ箱に捨てるならまだいいけど、トイレに流すようになる。運が悪いとトイレが詰まってしまうこともあるので大変。自分にとっていらないものを水洗トイレに捨てて水を流す、この行為はその後も我が家を悩まし続ける事となります。ウルトラマンの人形を半分に折る、なんかイラッとしちゃったのかなと母は拾ってくっつける。ごみ箱に捨てると母はもったいないからととっておき、ほとぼりが冷めた頃に出してはまたくっつける、だって下半身だけ何体も握ってるのは明らかにみためぎょっとする、しかしトイレに流し始めたときに、初めて母はそうか上半身は見たくないんだ、いらなかったのかと気づく、毎年浄化槽の掃除のときには何体もの上半身たちが出て来るのでした。まあ流れていってくれた方がラッキーですからそれは全然大丈夫。廉を見ていて一旦自分の中で終わったものが復活することはまずない、手元に戻ってくると少しは懐かしそうに手に取るが、決別したものは結局捨てられる。これを潔さというなら、人間としてこんなに潔い人はいないと思う。20才で7年お世話になった施設を退所して地元に戻ってきた時、余暇の時間に楽しんでいた本・おもちゃ・自分で作ったものetc結構な数のものがあったので、当然持ってくるものと思っていたら、すべてを捨てて何一つ持ってこなかった。変化は自閉症にとって一番苦手なもの、住むところ、接する人、景色、食べ物、日中活動すべてが一度に変わるそんな時だからこそ慣れ親しんだものがそばにあればと、私は未練たらたらでしたが、廉がいらないと言ったものを強引に保存すると後で痛い目に合うのは私たちなのであきらめましたが。でもそうやって少ない自分の許容量にあわせて周りのものに区切りをつけて生きているように見えます。そう思うと悲しいくらいの潔さは彼らの生きぬくための大切な知恵なのかもしれません。私にもそれくらいの潔さがあったらもっとすっきりした人生を送れるかもと、反省しつつ今年の目標を断捨離にしてみました。(余談ですが1年使っていないものを捨て始めただけで、ゴミが出る出る・・・・)「保育園か?精神薄弱児通園施設か?」まだ4才の話ですが、思い出した事を書きながらだとなんか話が進まなくてごめんなさい。通級は週一ですから、どこかにお預けしなければ、私は買い物にも行けないわけで、通級しながら次の春からの行き先、学校へ入学するまでの2年間の行き先を探すことになります。当然まずは障害児保育をしている保育園を探し、廉を連れて見学へいきますが、手首をしっかり握っている(でないと、廉にダッシュされてしまうから)私の様子を見ると、すべて「いつでも遊びに来てくださいね~」と暗にお断りされる。またそこで見たのは自閉症の女の子が、一人ぽつんと廊下で一人遊びをしてる姿、ただそこにいるだけという扱いだったのをみて、なんか違うのではと感じた私でした。そんな厳しい現実のなか「精神薄弱児通園施設・・・」この看板にはちょっとビビったが、そこは対応が温かく、うんち、おしっこ全然だめでもOK、もうここしかないでしょうという感じでした。健常児の中で周りから影響を受けさせたいとかいうお母さんもいるし、それがプラスになる子もたくさんいるけど、我が子を見ていると、周りなど全く関心なく、本能のおもむくまま、何かに急き立てられているイノシシ状態、周りの子に迷惑をかけるだけで、何も学べないだろうと予測できたので、まずは身辺自立に力を注いでくれそうな、こちらの施設の利用を決めました。次回は初めての集団生活に入り、将来背負っていくことになる破壊行動に家族がどう対処していったかのお話です。あまりに必死になっている時のやってることって客観的に見るとかなり笑えますよ。ついに台所で私は胸にモトクロスの胸当て、バレーのひざ当て、サッカーのすね当て、お尻には鍋を入れて炊事をしていたのです。こいつのおかげでこんな格好までさせられて・・・記念写真撮っておけばよかった。幼児編③ (5、6才)「通園施設での2年間」「はじめての集団」色々悩んでやっと決めた通園先K学園に通い始め、初めて集団に入ることになる。どんな2年間だったのか思い出そうと先生との連絡帳を開いてみたら、えーこんなこともあったんだと、読んでいたら面白くてやめられなくなってしまった。よくこんな毎日送っていたなあって思うと、忘れられるって素晴らしいことだと思う反面、忘れられない自閉症の人たちは本当に気の毒だなとつくづく思う。食事の場所が変わるのだからすんなり食べるわけなどない。まず食堂に入るまでに何日もかかり、イスに座るのに何日もかかり、一口目を口に入れるのに何日もかかり、見た目だけで絶対口に入れないものもあり、口に入れたかと思うと吐き出し、それにたいして周りのリアクションが大きかったりしたら、ニコニコしながら吐き出しは続く…。身辺自立に関してもおしっこもまだトイレでできるかどうか、排便は100%パンツの中にしていたころで、連絡帳でのやりとりで母は一喜一憂していた。 しかし、大変な我が子を自分だけではなく、ほかにも関心を持って接してくれる人がいると思うだけで、追い詰められる気持ちはかなり軽減するのだ。トイレでのウンチは結局なかなか身につけられず間もなく養護学校へあがるころですら難しかったので、ここでもまた養護学校への選択肢しかなかった。いろんな場面で集団での行動が始まり、家にいる時もかなりの不思議ちゃんだが、集団に入るとその不可解さというか不適応というか群を抜いていたようなきがする。5,6才は周りを真似ながら、羞恥心も育ちはじめ、いろいろなスキルを身につける年令だが、まず周りがほとんど目には入っていない、見通しが持ててないので、何かを一緒にさせようとしても「なんで今そんなことしなきゃならないだよ~」状態でひっくり返る。羞恥心がないのだから、周りにどうみられるかなんてそんなこと関係ない。今思い返すとこの2年間で一番印象に残っている事、それは数々の破壊行動のすごさである。これがこんなに尾を引くことになるとはその頃は予想できなかった・・・・。「こんなに壊す?」家の中での廉はすさまじかった!いくら壊しても5,6才の力じゃなかいかと思うかもしれないが、家の中で飲み物や、お菓子のおやつを「今日はこれで終わりだよ、また明日ね」なんて言おうものなら、とにかく言葉尻に「ダメ・終わりだよ」が付いたら、庭に面した大きなサッシのガラスを蹴飛ばしに行く、意外と廉は骨太でがっしりしている。一撃でガラスは割れ「キャー、危ないからそっちにいって!」私とばぁちゃんは大慌て、3度目くらいで気が付いた。そうかダメ、終わりはだめなのだ。しかし分かったらと言って「ダメ、終わり」の代わりに伝える方法も見つからない。まずは飲み物もお菓子も飲みきりサイズ食べきりサイズの変更。見て分かるようにしてみた。それでもいろいろ驚くことを次々やってくれる、そんな時には思わず制止の声が出る。ある日朝起きたらいつも廉が蹴飛ばす大きなサッシの内側一面に画びょうがこちらを向いて張り付けてある。まるで剣山がこちらを向いているかのように、損害保険に入っていても自宅は対象外である、一枚壊すたびに7千円、毎日壊したら修理も追いつかないのだ。下の部屋で寝ているばぁちゃんは窓に穴が空いていたら風は入ってくるし…。ばぁちゃん苦肉の策だったのかも。案の定廉が走ってガラスを蹴りに行ったら一瞬立ち止まり、さすがに画びょうをのけて蹴ったのでそんなに力が入らず割れなかった。これに気をよくしたばぁちゃんは、廉が叩いた電気のかさ、蹴ってへこましたキッチンの開き戸、穴をあけた壁、つぎつぎと画びょうだらけにしていった。うかつに壁に寄り掛かったら背中に針が刺さる生活だ。それもある意味刺激的だったけど、お客さんは確かに引いていた。もらった古いピアノに上がりゆらゆらさせていつ下敷きになってもという状況だったが、ある朝鍵盤がすべてはがされ、足をかけてものぼれなくなっていた。やったねばぁちゃん!言っても無理なら、それをできない状況にするしかない。それが良いか悪いか考える暇などない、明日も怪我せず生きていくには何かしないと…そんな家族総出の毎日だった。「学園初の強化ガラスへ」学園である日、ホールの園庭に面したガラス窓に頭から突っ込み、ガラスのギザギザにお腹か引っかかり止まったことがある。先生たちは皆お腹がぐっさりと予想したものの、かすり傷で済んだことがある。自分の思いや要求が通らないと暴れる、ガラスや鏡を割ると周りのリアクションはかなり大きいのを知っているので、まずはそこに向かう。その先まで考える力がないというのは本当に恐ろしい。先生たちはどんなにひやひやしたことだろう。次年度からその学園はすべて強化ガラスになったようだ。床に寝ころびひたすらストーブのフェンスを蹴りつづけ壊したりとずいぶんご迷惑をお掛けしました。一度始めるとなかなかそこから切り替えられない、それも自閉症の特性だが、それが破壊になるとかなり周りは大変になる、そんな毎日でしたが初めて私は同じような子を持つお母さんたちと知り合い、遠慮なく子どものことを離せる場が出来た。自閉症の親の会の存在も知り、バザーの準備をしながら先輩お母さんたちが昔の苦労話を笑ってしているのを聞けたことは、後々私を大きく支えてくれたし、親の会のお手伝いをすることで、自分のことにばかり向き合う生活から少しずつ視野も広がっていったような気がする。がんばってもがんばってもなかなか成果の出ない自閉症の子育ての中で、誰かの役に立てることで、また頑張る力をもらえるのだ。自分のことで忙しいのにそんな暇ないと思うかもしれないけど、そんな時だからこそ少し離れて奉仕することは自分を癒してくれるよってことを、若いお母さんたちに知ってほしいなと思っている。「お母さん回転レシーブの練習ですか?」家では破壊だけではなく、私への攻撃も日に日に増えていった。何ということもないのに突然通りすがりに私を蹴ったり、引っかいたり、5才児の爪と足があんなに凶器になるとは…。ついに私は台所に立つとき、廉に無防備に背中を向けられない、いつとび蹴りが来るかわからない状態になってしまいお尻に鍋を入れた。膝蹴りにはバレーのひざ当て、すね蹴りにはサッカーのすね当て、胸にはモトクロスの胸当て(友達のご主人のバイクやさんから借りた)母だって蹴られれば痛いし声も出る、痛いと相手に仕返ししたい衝動に駆られる。そんなことをしても通じないのだから、なるべくリアクションを少なくするには、痛みを軽減する方法をこちらが採るしかないわけで、ついにはこんな格好に。あれ?お母さん家で回転レシーブの練習ですかって聞かれそう。今ならこれも笑って話せるが、めそめそしている暇もなかったのだ。だって私がしくしく泣いたりしたら、いつもと違う母の様子に不安になった廉は、私の頭をなでるどころか踏んだり蹴ったりが始まる。共感性がないってこういうことだよね。なんか破壊の記憶が強すぎて、ネガティブな話ばかりになってしまいましたが、何処に行くにもまだ、体も大きくないし拒否もなかったので、キャンプに行ったりと色々でかけたりもした楽しい時期でもあった。やることは過激ですが、笑顔が多く接する皆さんから可愛がられる子でした。出かけるにも主人の協力がなければどうにもならいことを父も知っているので、早くからたくさんの協力をしてもらい、学園の遠足も父一人で連れて行ったりと、私はその間長男と出かけたりできたことは主人に感謝です。俺が頑張らないと自閉症との生活は成り立たないと思ってくれたら母の勝ち。こんな破壊や他害のある廉が養護学校へ行くことが決まり、養護学校だってリサーチ済みなので、いろいろ策を練って待っていました。小学6年間でびっくりするくらい体も大きくなった廉、そのぶん一緒に暮らす家族はそりゃあ大変、被害も大きくなるし、家の中だけにとどまらなくなってくる。小学部時代を名づけたら「家からの飛び出し時代」地域を巻き込んでの騒動を次回はご紹介しますね。学童編① (7才) 激動の小学部スタート!「わかってあげられずごめんね」「連日のパニック」初めての大きな集団「入学式!」ダウン症の子どもたちは結構晴れやかな笑顔で参加する子もいたりしますが、明らかに自閉っ子たちは親が側にいたって皆顔が引きつっている。父も一緒にいたので何とか集合写真には収まったものの…という感じ。幼児通園施設で散々やらかしての養護学校入学ですから、それはもう「さあ、かかってこい!」という感じの体格のよい先生が担任として待ち構えていました。なぜ今回の学童時期までコラムに時間がかかったのか。それはとっても気が重かったから…養護学校へ行くのだからだんだんこの子の状態も安定してくるのかもしれない。そんな漠然とした期待も心のどこかにありましたが、今振り返ると残念ながら学童期時代特に小学部の6年間での私の過ちで、廉の行動障害の基礎ができてしまったような気がして、そんな自分の過ちと向き合うのが辛くて、なかなか書く気持ちになれなかったのです。クラスは自閉症とダウン症、知的障害のみの子と混ざった7名ほどのクラス。ベテランの女性の先生と、若手の男性の先生。お二人とも優秀な先生です。学校ではどうだったのだろう?とにかくこの頃記憶に残っているのは、帰宅後のパニック。スクールバスで戻り家に入ると、なんということもないのに突然暴れ出す。抑えないとテレビやガラス、あらゆるものに向かっていき壊してしまうから私は彼を押さえる。後ろから抑えたら頭で私を攻撃する。前から抑えたら足で私を蹴る。結局仰向けにして私が馬乗りになり、手を押さえ私の足で、廉の両足をそれぞれ抑える。そんな器用な抑え方ができるの?毎日のことですからそんな器用なこともできるようになるのです。半端なところで緩めたら大変なことになる。計ったら2時間、彼のイライラなのか怒りなのか…とにかく廉の力がふっと山を越え少しおさまるまで毎日2時間馬乗り、廉も疲れるだろうけど、私もへとへとです。なんなのだろうこれって…?担任の先生に話してみた。そうしたら「学校では問題ありませんよ、お母さんが甘いからじゃないですか?」っん?甘いってどうこと?もっと厳しくしろってことなの?もしそうだとしたら厳しくってどうしらたいいの?学校前にお世話になった先生方にも相談し、なんとかこの状況に糸口を見つけたいと必死だった、ネットなどもない時代です。信頼している先生たち数人から「目には目をもってでも教えないと将来大変なことになりますよ」そう言われたら信念もって廉に向き合うしかないと感じた。ある朝ハンドルを握ろうとしたら、昨日廉を手の甲で叩いた時膝にあたり、血管が切れ内出血をし、右手の人差し指と中指が腫れていて曲がらない。ハンドルを握れない… 「私は何やってんだろう?」涙が出てきた。もう一度担任の先生に相談してみた。答えは前回と同じ。「学校では問題ないですから、お母さんが甘いんじゃないかな。」 あと私に何ができるのだろう…。ふと思い出した。夏と冬は連泊の母子訓練に参加しているが、そこで函館の専門施設のパンフレットを見たことがある。自閉症の子どもがたくさんいるところらしい。家族訓練っていうのが春休みにあるとのこと、それに申し込んでみた。「不幸なタイプ?」やっとたどり着いた専門施設の家族訓練で、「お母さん、自閉症に目には目をやっても分かりませんよ。生活と環境を分かるように整えてあげないと」と言われた… この半年はなんだったのだろう。私が廉のそばを通ると、何もしてないのに廉は頭をガードし身構える。誰の勧めといえ、やることを選択したのは私と主人である。なんという過ちを犯してしまったのだろう。その時の情けなさとやりきれなさを表す言葉がない。でも今思うと、この時期があったからこそ、いろいろ考えたし、行動したし、動いているうちによい方達とも巡り会えたし、そのことは確実に廉の将来へとつがなっていくことになりました。また、どの担任の先生も一生懸命廉に向き合って頑張ってくださいました。そのことには心から感謝していますし、廉もどの先生方も大好きでした。ただ学年が変わり担任が変わるたびに、それぞれの先生方のやり方があり、それが良いとか悪いとかではなく、少し違ったりたくさん違ったり…。廉のようなタイプの子にはこの違いは結構痛かったのかもしれない。行動障害がひどくなり専門施設に入所した後18才頃の時、ある専門家に出会った。その方から「廉君は学校生活の失敗作だね。同じ支援をしても、それをネガティブにとらえていく不幸なタイプ」と言われたことがある。はあ~?って感じ。思考回路は母に似て結構屈折していることはなんかわかる。人の親切になんか裏があるのかしらって思いがちな、こんな私の性格を受け継いだのかも。それに自閉っ子の変化に弱く、自分ルールを作りやすい、諸々の特性をミックスし、不幸なタイプが出来上がったのだとしたら、私の育て方ばかりのせいじゃないと言われている気がして、落ち込むというより正直すっきりした。誰のせいでもない。こんなタイプもあるのだ、それがたまたま私の子ということ。こんな小学部のスタートでした。私も若かったし自閉症の親としては新米、先生方も若かった。それぞれの立場で一生懸命やっても、なかなかかみ合わない時期というのがあるんだなあって感じです。親も少しずつそうやって先生方との付き合い方を学んでいくのかもしれないと今は思えます。これから短いような長いような学童生活がスタートします。今から22年前の話ですよ。60歳も近くなって、まあいろんなことを忘れている私。昨日の夜何を食べたかも覚えていないんだから、そんな昔のことはほぼ忘れていますので、小学部の先生とのお便り帳を引っ張り出して次回からは頑張りたいと思います。次回は我が家伝説の「ワンちゃんイカ食べちゃった」事件あたりの年代かな。お楽しみに。学童編② (8才) 「ワンちゃんイカ食べちゃった事件」ようにまだパンパンになっていない時期だったと思うから、養護学校に入学した年の夏のことだろうか?あれ、廉がいない!まさか家を一人で出ていった?こんなことは初めて、そんなに遠くに行くはずもないから、少し様子見ようとちょっと暢気に構えていたら、30分くらいで家に戻ってきた。ん?白い短パンに白いTシャツの所どころに赤いものがついている、よく観たら結構ついている、血?どこか怪我しているのだろうか、そうでもないようだ。じゃあこの血は誰の?どこで付いたの?自分の子どもが何のものかわからない血液を結構な量、衣服につけて外から戻ったらたいていの親はびっくりする。何の血液なのかはっきりしないと不安でしょうがない。コミュニケーションの出来ない息子からどうやって聞きだしたらいいのだろう。根掘り葉掘り優しく根気よく聞きつづけたら廉が突然「ワンちゃんイカ食べちゃった!」と言った。私とばあちゃんは??どこかの犬が、イカを食べてたのを見たのか?それでなぜ廉の体に血が付くの?「廉君、ワンちゃんイカ食べちゃったところに、いってみようか」廉「行かない!」そうだよね、今戻って来たとこだしさんぽ終わったよね。そこを何とかだましだまし、こっちの道?あっちの道?と近所を廉と歩き出したら、家から5分くらい歩いた大通りの結構広い歩道の先に、何やら赤いものが横たわっている、悪い予感・・・・ゲッ 猫?の内臓がすでに出ている状態・・・血の気がサーと引いた、廉はいかが大好きなのだ、ワンちゃんがイカ食べているように見えたんだね。自閉症の、認知の仕方が違うってこういうことかと驚いた。そのイカもしかして僕も食べたいって触ったのだろうか?もしや口に?でも口には血はついてなかったから、それはしなかったと信じよう、信じたい・・。 暑い夏と白い短パンを見ると今でもこの悪夢を思い出す。この頃から、廉は外って意外と面白い、とくに一人で行くってうるさい母ちゃんも側にいなくていいなと学習したのかもしれない。ここから飛び出し全校トップを7年間にわたり保持し、警察からはとうとう「家から出さないで下さいよ」と言われるに至ってしまった。「ラーメン、餃子おかわり事件」「アイスクリーム7個事件」「バイキング食べ放題事件」専門施設への入所となるまでの7年、何度警察や学校の先生たちのお世話になっただろう。こんな茶化したタイトルつけたら警察に怒られそうだけど、こうでもしないとやってられないほど随分と悩まされた時期である。次回は3つの事件をはじめ、この外への好奇心と実行力に、振り回され続けた我が家のあの手、この手をご紹介しますね。学童編③(8才)「「ラーメン、餃子、コーラ! 事件」まだそんなに暑くもなく過ごしやすい晴れた日でした。放課後ディもなく、養護学校の小学部低学年の午後帰りは週一だけ。あとの5日は給食を食べたら戻ってくる。夕方まで毎日何をして過ごさせようか・・・・そんなころの出来事でした。その日は家から20分くらいのところにある、結構大きな書店へ、隣にはレンタルビデオ店もあり、廉の大好きな戦隊モノのビデオのパッケージを見たり並べ替えたりするだけでも結構時間を過ごせるし、文具もある書店でいろんな色のペンやマーカーも並んでる。書けなくても見ているだけでも楽しめた頃ですから、今日はここでゆっくり時間を過ごそう。多少声が出てきたら途中で、申し訳程度の文具を買って・・・・そうすると一応お客さんだから露骨に嫌な顔はされない。私も本を立ち読みしながら目の端では廉を視野に入れながら、あれっ?そこにいたのに・・・一瞬わたしが本に集中していたら廉が見当たらない。隣のビデオ店だろう・・・・そこにもいない!「ワンちゃんイカ食べちゃった」以来の見失い、出先では初めてです。でも小2の足でそう遠くへは行かないだろう。ここは家からかなり離れているし、このあたりは書店とビデオ店しか行ったことないしと、よい方に考えながら近所を探し回ること15分程。向かいには大きなバスセンター、車やさんなどいろいろ見て回ったがどこにもいない。携帯もようやく出始めたばかりで、まだ主人しか持っていない。とにかく近くの交番に行って事情を話し、車で近辺の住宅街などを探し始めた。長男がこの近くの学校なので、一緒に探してもらいたいが、まだ携帯ないから連絡できないし・・・主人にも連絡しあちらこちら探しても一向にみつかならない。しばらくしたら、友達から電話が来た。その友達は家が近く同じく自閉症の子を持つお母さんで、近くの交番には、第二連絡先にしてもらっている友達だった。「廉君今家であずかってるよ。安心して!探してたでしょう!」彼女の家はここから8キロくらいも離れてるし、なんで彼女の家に??? 廉を引き取りに行って事情を聴いた。なんと、廉の初めての無銭飲食発覚!(こんなおいしい事覚えたら、この先がわかるでしょう?)あの書店の側にはチェーン店の「くるまやらーめん」があったのです。そして廉はそこに入り、テーブルに座り「ラーメンと餃子とコーラ!」と言ってみたらしい。店も子ども一人でちょっと怪しさは感じたものの、滑舌よく迷いもなくはっきりと言ってくるし、まずはラーメンと餃子とコーラを出してみたそうです。美味しそうに食べはじめ・・・ちなみにここで廉のこの頃のラーメンの食べ方をご紹介しましょう。まずネギ、しなちく、チャーシューを全て食べる(ネギに一かけらも残さず)その後レンゲでスープの飲み尽くす。その頃にはあれ?これパスタ?というくらい麺がスープを吸っている。そして麺を一気食い!まさに、自閉症の方によくみられるばっかり食べ※ここにありって感じです。家にいる間はずっとこの食べ方だったけど今はどうなんだろう?機会があったらグループホームのスタッフさんお知らせくださいね。餃子が特別美味しかったのでしょう。「餃子おかわり!」といったそうで、さすがにお店も「ぼくお金持ってるの?」廉「お金ない!!」といって玄関から出ていこうとした。お店の向かいにはバスセンターがあり、このあたりは福祉作業所もあることから、ダウン症や自閉症の方々もよくお店に出入りするようで、お店の方はもしや障害があるのでは?と思ったらしく、もしここでこの子を店から出していまったらたいへん。きっと家族が捜しているはずと思ってくださったそうです。お昼の忙しい時間帯を、バイトの高校生に廉を見張らせて警察に連絡してくださり、家の近くの交番に連絡が行き、それなら木村さんのところの廉君かもということになったようで(なぜこんなに早い時期から署内では要注意人物だったのか?と思ったけどこの時は幸いしました)家に電話しても耳の遠いばあちゃんとでは話もなかなか通じず、第二連絡先の友人宅に連絡が入りお店に引き取りに行ってくれたというわけでした。あの時お店の方が廉を捕まえておいてくださらなかったら・・・その後どこをどう探したらよいかわからず、広範囲の捜索となり時間もかかっていたことでしょう。そう思うとお店の方のご好意に感謝感謝でした。主人と後日箱入りメロンをもってお礼に行ったら「大丈夫、大丈夫、こういうお子さんは良く来られるので、きっとご家族が心配しているなと思ったものですから」と。なんて素敵なご夫婦なんだろう。本当に今回はいろいろラッキーでした。でも予想通り、廉ははっきり注文すれば、後払いのところでは食べたいものが口に入ることを学習してしまったのでした。教えたいことはちっとも見向きもしないけど、自分の利益に関することはまぁ学習するのは早いですね。でもそれは私達も同じことだよね。だからこそ、社会のルールや、やってはいけないこと、お願いする手順等々、幼児の時から分かるように少しずつ積み重ねていかないといけないんだなってことを痛感します。これからしばらく、我が家はこの飛び出しと、無銭飲食に悩まされる日々が続くのです。いざというときに、助けてくれる学校の先生や友人等々いたから何とかやって来れたことを想うと、人とのつながりが本当に大切だって分かります。次回は「アイスクリーム7個事件」ですよ。いくら滑舌いいからって、0円でアイスクリームをどうやって7個も食べられるんだろう?それが食べられるんです・・・・・・※ばっかり食べ食卓にご飯と、汁物を含めたいくつかのおかずが並んでいる場合、まず一つに箸をつけると、ほかのものには一切手を出さずになくなるまでそれを食べ尽くし、次の食事に手をつけると同じようにそればかりを食べるような食べ方である。自閉症の方の中には、感覚の特異性から味が混ざると美味しく感じないという方や、これを食べたら次はこう食べようとか、これとこれを一緒に食べようというように瞬時に食べる順番や食べ合わせを決めることが難しい方もいます。学童編④(8才)「アイスクリーム7個 事件」前回初めて警察のお世話になり、廉の行動には気が抜けないなと思い始めてはいましたが、 こうまんまとやられるとは・・・・・出先で気を抜いて痛い目にあったので、もう出かけた先では見失わない自信はありました。しかし、その日は家からそっと出ていったらしい。鍵もかけてあるけどダイヤル式ではない。(玄関がダイヤル式ならピンポンの度に鍵回して、どんな家?と怪しまれる)気が付いたらすでにいない。父が家にいる休みの日は私も安心しているが、そこをやられました。前回家から出ていったのは「ワンちゃんイカ食べちゃった事件」だから近所をまわってすぐ戻ってきた。出先でいなくなったのは我が家から8キロも離れた本屋さんだから、幾らなんでもわずかの時間でそこまでは行けるはずがない。我が家から街を目指すには大きな馬淵川を渡らなければならない。橋は右手方向の大橋か左方向の橋か、もしくは青森方向へ向かったら完全に逆方向。この3パターンのどこかを、繁華街か青森方面へ向かうだろうが(青森方面はバイパスがあるだけでお店もないので向かわない可能性が高い。後には青森目指していった事もあった)まっ、今頃は街に向かって走っているだろうけどもコースが見当つかないから全てを回るしかない。家族だけでは人手が足りないので、子どものいない動けそうな友人に連絡し、3方向に分かれて探し始めた。朝9時頃に家を出たのでまだ大きなお店は開いていない。でも、前回注文すれば食べられる経験をしているので、ラーメン店や食堂は外せない。信号だってどんなふうに渡っているのか信用出来ない。車に迷惑かけたり、事故に遭ったりするかも…。昼を過ぎても一向に見つからない。警察に届けるべきか…。でも明るいうちは何とか見つけられるのではという気持ちもあり、家族、友人、学校の先生たちで探すが辺りも薄暗くなってきて、このままではまずいと警察に連絡。「もっと早く連絡してください」と怒られる。そりゃそうだよね。間もなく夜になっちゃう。でもいくら無料とはいえ、警察にお世話になるというのは、一般市民にとって結構大事件であり躊躇しますよね。とにかく夜6時頃見つかった。誰が見つけたのか、どこで見つけたのか正直記憶にない。ただその後のことのインパクトが強すぎて、見つかった状況すら今となっては覚えていない。 朝9時から家を出て、夜6時に見つかるまで、この長時間何処で何をしていたのだろう。聞いたって何も答えない。何か手がかりになる物がないかと右ポケットを触ったら何か入っている。(ここからは私もしっかり記憶している)何だろう、紙みたい。取り出したら同じ三角の紙が何枚も重なってきっちり二つ折りにしてある。数えたら7枚、これは確かにがちゃがちゃアイスのコーンのキャップ(持つ部分に包んである紙)。「廉君、アイス食べたの?」「アイス食べた!」沢山あるけど、まさかこんなに食べるわけない。食べさせてくれるわけないから(文無しの子に)拾ったのだろうか?「何のアイス食べたのかな!」「バニラとチョコとペパーミントとストロベリーと・・・・・・・・食べた!」7種類をはっきり教えてくれた。え~~!どこのご親切な方が文無しの子にアイスを7種類も食べさせてくれる?「どこで食べたの!」「知らない!!」なんだ、なんだ、この子になにが起こったのだろう。このキャップはどこのものだろうか?いままで廉と行ったことのあるところの可能性がまずは大きいだろう。がちゃがちゃアイスは後払いのところが多いし。のちに廉の通るであろう道沿いのマックに聞きに行ったことがあるのですが、そこにも寄ったらしいことが分かった、先払いだから注文はしても、お金はと言われて走っていってしまった子がいると聞いた。それは廉に違いない。ケーキ屋さんでも5個食べて逃げ去ったことがあったので、先払いの店は無理って学習し、まずは物を出してくれるところを記憶していくのでしょう。食べるものに関する学習能力はすごいね。挨拶できなくても、接続詞を知らなくても、単語で注文できますから。当時はまだ三日町にイトーヨーカドーがあったころで、最上階は遊技場で片隅にがちゃがちゃアイスがありました。家族では何度か遊びに行って乗り物に乗ったりした事もあったと思い出しました。まずは次の日行ってみた。ただ食いしたならお金も払わないと、そして謝ってこないといけない。コーンのキャップをもって「このキャップはこちらのものでしょうか?」高校生のバイトらしき若い女の子が1人でいた。「はいそうですね」「昨日家の息子が、このキャップを7枚ポケットに入れて帰ってきまして、自閉症で知的障害もある子なんですが、朝家からいなくなり夜に見つけた時アイス7個食べたって言ったもんですから、もしやこちらかなと思って。そんな子記憶にありますか?」「あ~、ありますよ」「どうして7個もお金がないのに食べられたのでしょうか?」「初めに指さして、このアイス食べる!って言うんで渡しました。そしたらお金払わずにいなくなっちゃって、そうしたらしばらくしてまたきて、今度は違うアイスを言うので、今度はお金払ってくれるのかなって、渡したらまた行っちゃって。」「で、また何度もきたんですね」(私)「7回目渡したらもう戻ってこなくて」(坦々と無表情で状況説明風)「本当にご迷惑をお掛けしました。自閉症なもので、私達も十分気をつけますが、万が一また来るようなことがありましたら、お母さんと来てくださいとか、お金は持ってるの?と一言声をかけていただけると助かるのですが」「はあ…」この会話だけは今でもはっきり覚えている。廉が来たのは日曜日、さぞこのコーナーも混んでいただろう。これ食べる!ってしつこい子にはとにかくアイスを渡せばいなくなる。いなくなってほしいよね、お仕事の邪魔だもの。で7個目渡したら戻ってきませんでしたということだったようです。彼女のバイトの時給に何ら問題もないわけで、一度手にしたら次もアイスくれるまで叫び続けるよね、全部で10種類くらいありましたが、さすがに7種類で廉ももう満足したのでしょう。廉はしっかり学習してしまい、次回からはいなくなったら必ずここに立ち寄ります。それを知っているので、まずはここのエスカレーターを昇ったところで待っていて、やって来た廉を捕まえたことが何度かります。ご迷惑をお掛けしたのは、100%我が家ですから、なにをどうこう言う筋合いじゃないのですが、なんとも複雑な心境だったのを察して頂けるでしょうか。私の思いを話すのはやめにします。とにかく廉を出してしまった私が悪い、出さないためにはどうしたら?靴を隠す、靴下を隠す・・・・いろいろ考えました。この頃はまだ体が小さかったけれど、高学年になると一気に体格も良くなり、その体で相変わらずこんなことの繰り返し、もっともっと多くの人たちを巻き込み大ごとになっていくのです。忘れていたこの事件を思い起こしただけで、ふ~って感じになっている私です。無銭飲食なら謝ってお金を払えば何とか乗り切れるが、女子トイレや、試着室を大きな体で開けたりしたら、まあそれは大ごとになるのです。こんなことを思いだしていると、一気に夢見が悪くなり、廉を追いかけたり追いかけられたりする夢を見て、心臓がどきどきしてくるのです。では今回はこの辺にして、次回は「バイキング食べ放題、タクシーただ乗り事件」です。私だって好きで家から出してるわけじゃ決してないのです。学童期⑤ (11歳)「バイキング食べ放題、タクシータダ乘り事件」小学2,3,4年も色々あったのですが、思いついたので5年の時の出来事で、前後しますが今回はこのお話です。養護学校1年生では山のような大きな男の先生とお母さんタイプの優しい女性の先生コンビ、2年生は幼児教室でもお世話になった年配のベテラン女性先生と、若くて可愛い女性コンビ、3年生は2年の時の若くて可愛い女性先生と、ベテラン男先生のコンビ、4年生は男先生が1人担任、ここから自閉が厳しい廉を含めて4名の男の子のクラスで6年生までいきます。5年生は若いやる気満々の若い男先生と落ち着いた女性の先生コンビ、6年生は5年の男先生が1人担任。どの先生も、廉は大好きだったし、先生も一生懸命やってくれたのに、問題行動はどんどん大きくなり、連日事件が起きる・・・・、まわりを見てもそうそう警察のお世話になっている子も見当たらない。重い自閉症のクラスの中でも、この子はいったい何がどうなっているのだろうと思う日々。5年生11才の頃、廉はライオンズマンションが超お気に入り、ライオンズマンションの前にはシンボルの重厚感のあるライオンの置物がある、建物の作りもレンガ造りで高級感がある、マンションはどこも好きで、ドライブすると、あそこのマンション、こっちのマンションと回ったもので、マンションの前で車を止め、指をさしながら回数を数えている、また目をつぶってニヤニヤしたり・・・自分で納得すると「終わりました!」と言ってくれる。そうやって市内のお気に入りマンションを4つくらいまわるというのが、ドライブの定番だった。市庁の側にライオンズマンションが2つあり、その間にグランドホテルがある、そこの最上階のレストランに行くと、二つのライオンズマンションが一望できるポイントなのですが・・・、それがまた事件の種になってしまうのです。前置きが長くなってしまいましたが、その日は9時頃カシャッと音がしたと思ったら、すでに廉がいない、日曜日の朝のことです。何度も言いますが、鍵は3つ。家族も細心の注意を払って暮らして入るのです。まずは、家族友人に助けを求め、今までいったことのある大型店舗、アイスクリームをただ食いしたところ等々行ってみるがなかなか見つからない、日曜日だけど、まずは担任にも連絡しないといけない、と同時に昼過ぎには警察にも連絡、暗くなり始めた頃に連絡すると、もっと早く連絡くださいと怒られたことがあるので、申し訳ないけど本署に連絡。 夕方、暗くなり初めの頃に警察から連絡が入った、「タクシーの運転手さんから、廉君らしき子がタクシーを乗り回しているとこちらに連絡が入っていますよ。まずは本署に来るようお願いしましたので、廉君かどうか確認に来てください」父がいったら、案の定廉でした。なんでも運転手さんがおっしゃるには、「グランドホテルの前に停まっていたら、この子が乗り込んできて、ライオンズマンション行く!と言った」そうで、(ライオンズマンションなんて、この辺りじゃお金持ちしかすまないから、どこかのお坊ちゃまと思われたのかも)「この子の言うとおり走っていると、どんどん港の方まで走っていき、さすがになんか様子がおかしいなと思って、警察に連絡しました」(名札の類はどこにつけてももぎ取るので、かろうじて首の後ろに名前を書いているから、前から見ただけじゃ養護学校に行っていることも分からない、)「いくら払ったの?」と聞いたら「¥5000くらい払ってきた」え~!そんなに乗ったの?もちろん廉が100%悪い、でももう少し早くおかしいって思ってくれても…・。さすがの廉も少し後ろめたい顔をして家に戻ってきた。朝ごはんも食べず家を出ていき、もう夕方の6時ですから、お腹も減っているのでは…しかし前科もあるので一応聞いてみた「廉さん何か食べましたか?」「食べた!!」あーまたやってしまった。「何食べたの?」と聞いた私に、廉はニコニコしながら「お寿司、唐揚、焼きそば、ピザ、ケーキ・・・・・」またまた新しい展開、文無しの一日中走り回り服も薄汚れているこんな見た目の子に、どこの誰がそんないろいろ食べさせてくれるのだろうか?「廉君、何処で食べたの?」「グランドホテル!!」、さっそくグランドホテルに電話をかけて、うちの子がこのように話しているのですが、どこかの部屋から苦情などありませんでしたか?するとホテルでは「たしか、最上階のレストランに、一人で入って来て、窓ガラスにへばりついて外を眺めている子どもがいたとは聞いていますが、後は別に」だよね、やっぱり2つのライオンズマンションが一望できる所目指して行ったのだ。でもレストランだから、薄汚れた服の子どもに、食べさせるわけがないし。とにかく明日ホテルへ行って謝ってこよう。 展望レストランの方からは「はい、いらっしゃいましたが、すぐに出ていかれました」日曜日の夜に、せっかくディナーを食べている横で、大きなガラスにへばりついてライオンズマンション数えてニヤニヤしていたら、そりゃあ直ぐにつまみ出されます。じゃどこで食べたのだろう?そういえば、自閉症の親の会ではここ2,3年ほど、1階のホールでクリスマス会をやっている、バイキング料理で、でもそれも廉が消火用の煙のダクトを引っ張って開けたり、金屏風をとび蹴りしたりと散々やらかし、既に連れて行ってはいない、でも覚えているはず。「昨日は、あちらのマリーンホールで何かやっていましたか?」「はい、お得意様感謝デーをやっておりました」「お食事なども出ていたのですか?」「はい、いろいろとバイキングで・・・」そうでしたか。レストランを追い出され玄関に向かったら、以前入ったことのある部屋をみて、なんかドアを開けたのでしょう、そうしたらクリスマス会の時のように、いろいろな料理やデザートが並びたくさん人がいる、廉がどこの子かわからないけど、お得意様の子かもしれないから、勝手に食べていてもそこからはつまみ出されなかったのです。散々食べて玄関から出たら、母と何度か乗ったことのあるタクシーが止まっている、そこに立ったら、ドアが開きます。5年生で既に身長も結構あるので、一人で乗る子もいるでしょうし、運転手さんが「どちらまで?」と聞いたら廉は「ライオンズマンション行く!ここで止まる!次は右、まっすぐ、左」とか頭の中にある地図を頼りにどんどん行ったのでしょう。グランドホテルには予想される事情を話し謝り、最上階レストランにも謝り、レストランには食事に行くものだということを教えようと若い担任といろいろ考え、その後トライしたことがあるのですが、ことごとく廉の実力を見誤り、痛い思いを重ねた時期でした。自閉症の子は、好きな物でも嫌いな物でも、すぐに見付けてそこをこだわったり、自分ルールを作りやすい。行こうという気になったら、何処へでも行けそうな気持になるのでしょう。青森を目指して歩き出した時もあった。15㎞くらいのところで捕まえたけど。青森まで100㎞好きにさせたら歩くのだろうか?(虐待で親が逮捕される)そのころ、私達親も未熟だったので、経験させて、ダメなんだということを教えられるのではと勘違いしていた。自閉症脳の子にはそんな教え方はそぐわない場合があるということを、親も何度も失敗して気が付いて来ました。廉には本当に申し訳ない思いでいっぱいです。もっと勉強していたら違うやり方もあっただろうなと思う懺悔の気持ちもあり、親のためのセミナーを毎年開催しています。親自身の思考回路を柔軟にし、こうである筈、こうであるべきを変えていかないと、親も子もどんどん追い詰められていくのかもしれない。あまりに柔軟にすると、社会との隔たりが大きくて、変わった家族になっちゃうし・・・・。難しいね。写真 この写真は5年生の学芸会のもの、なんとタイヤを2つくっつけたものに、器用に乗りながら板を割るカンフー。踊りも興味なし、劇も全く、意味が分からないとどこかに行ってしまう。ぐらぐらしたものが大好きで、バランスを取るのが上手い、乗馬もやっていた頃でした。学芸会でたった一度拍手喝さいを浴びた出し物でした。一枚目の眼帯の姿の廉ですが、目がかゆいと普通は手の甲で瞼をごりごりする、でも廉は目がかゆい、違和感を感じると、人差し指の第一関節までを瞼の中に直接スイッと入れて、目の玉を直接触る、下手に制止させたら角膜を傷つけ失明する、でもそういうやり方をいきなりするのです。(初めて見た時息が止まるかと思った)だから一回指で触ったら重度の結膜炎必至。とにかく痒くならないように先手を打つしかなかったことを思いだした一枚です。 自分が生きてきた常識の範囲を超える出来事ばかりが目の前で起こることのメリットもないわけじゃない。「あの時よりはましかも」って思えることはかなり自分を忍耐強くする。教訓この世に、まさかとか、信じられない・・なんてことはないのだ。いちばん信じられないのは自分の息子ですから。そう言えば、4年生で廉は学校の送迎バスを降ろされてしまった。20年以上前にすでに、有償の送迎を親子で使っていたかわいそうな事情を次回は。コラムをしばらくお休みしている間に、私はおばあちゃんになりました。37才の廉の兄が、35才でやっと結婚し、孫が1才となりました。廉に6年会えていない寂しさを埋められるものではありませんが、とにかく可愛い、まだ1才なのに、空のヒコーキを指さして「ほら、あそこみてごらん」っていうと、見るのです。健常の力って凄すぎる!!可愛い健常の兄弟を自閉症へのイライラで怒ったりしたらダメだよ~New学童期⑤ (9~10歳)「送迎バスを降ろされることってあるんだね」小学2,3,4年も色々あったのですが、思いついたので5年の時の出来事で、前後しますが今回はこのお話です。廉は今年32才になる、毎月担当スタッフさんが廉の様子を写真も添付し送ってくださいます。ピースサインの写真を見て32才にしてはなんだか老けて来たなあって感じていたら、コンビニで好きな飲み物を選んでいる写真が別人のように生き生きして写っている、好きな物があるって、選べるって楽しいよね。生廉に会えなくなって7年が過ぎ、写真と動画でしか彼を見ることが無いので、些細なことも気になる時がある。でも廉と面会した後に父が、「いつもの廉さ、あいかわらずお約束のセリフの連発だし」というのを聞くと安心する。20年以上前のことを思いだす作業は結構大変、鮮明に覚えていることといえば、よくも悪くも心がかなり動揺したことばかりなので、思い出すと苦しくなることの方が多い。もしもいま同じような苦しい状況にいる方がこのコラムを読んだら余計苦しくなるかもと思うと申し訳ない気がしますが、でも何と言っても20年前のことなのです。この20年で特別支援教育もかなり進んでいるはずだから、きっと周りにはもっと相談できる人や機関がある筈だから大丈夫。学校の中で送迎バスに関して一番権限があるのは運転手さんなのだと痛感した出来事でした。4年生の頃だっただろうか、バスの座席のスポンジをほじくりだすということをやりだしたようです。顏や体でも見えるところ、手の届く範囲に傷があれば、どんどんいじって長引くどころか、貫通してしまうのではというくらいやってしまう傾向が小さい時からありました。座席に切れ目や穴が空いていたのでしょう、送迎の間は添乗の先生も全員のことを細かく見守ることなど不可能ですし、30分以上は乗っているのです。やることもないということになれば、切れ目からスポンジも出すでしょう。スポンジは結構な量はいっているようで、とってもとっても出てくる。1回目で気が付いてもらい、席の移動や対応が出来ればよかったけれども、1週間6回続けたらもうこだわりとなってしまう。そこから布で覆っても、どうやってもやめさせることが無理となり、最後の手段で先生の目の届く、運転席のすぐ後ろの席となったようです。(ここで、好きな本でも見せてくれたらよかったのですが、特別扱いはできませんよね、でもそれを特別扱いっていうこと自体も、なにを優先したいのか分からない)そうしたら今度は運転手さんと、廉の間にある仕切りの金網を蹴りだしたとの事、廉は理由もなくそんなことはしない、ちょっとした舌打ちや、あきらかに自分にむけた小言は聞き逃さない。どの子もそうですが自分をばかにしたり、責めたりする言葉には過敏に反応する。でもほとんどの子はシュンとするか、威圧的な言い方をされれば我慢します。でも自閉症の方たちはなかなかそうはならない特性がある。でも立場を変えればよく分かる。大事にしているバスを容赦なく鉄骨が見えるくらい壊し続ける子など、可愛いわけがない。舌打ちの一つもしたくなる。でもどんな理由があっても、やってはいけない危険行為をしてしまったのは私の息子です。運転手さんに「廉が金網を蹴ると危なくってほかの子の安全も確保できませんよ」と校長が言われたら、「校長としては子どもの安全が第一なので、降りて頂くしかありませんね」当然そうなるわけです。まだ有償の送迎は結構お高い頃でした。廉一人を乗せてやるわけにはいかない、ちょっとした隙にいなくなるかもしれません。私と二人で乗せてもらい、その後私は家まで送ってもらい。帰りは私も乗ってお迎えに。1日2往復。私の車で送迎できるものならしますが、私とでは信号で止まった途端、後ろから助手席を前に倒し助手席のドアを開け外に行ってしまうのです。チャイルドロックは助手席側にないことを知っています。調子が悪ければ後ろからキックも飛んでくる、そんなことになったら運転中に私が意識を失ったら自分だけの事故ではおさまらないことになります。そんな状況の子がバスから降ろされるということは、特別児童手当では到底足りないくらいの大きな出費がかかるのです。そうまでして養護学校に行く意味があるのだろうかと頭をよぎる。行動の厳しい子を抱えた家族はどんどん厳しい状況に陥っていくことになるのです。それが悲しいけど現実だった。行動障害の子を持ったら人生負け組だねって、主人と話したことを思い出す。そう笑うしかない時期もあるってことです。それでも生きていれば悪い事ばかりじゃない。その後もバスどころじゃない結構ハードなことばかりが続きますが、20年後の今、廉はびーたで楽しそうに生きているし、私と主人はよちよち歩く孫と楽しい時間を過ごしている。変えられることは変えていこう、でもどうにもできないこともある、それは受け入れるしかないということを学んだ出来事でした。でも、皆で知恵を出し合ったらもうちょっとなんとかならなかったもんかね~学校って何?(ひとり言だから気にしないで)